とても美しい5月
とても美しい5月 僕の心の中には 恋が芽生えた
これは、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが、ハイネの詩に作曲した連作歌曲『詩人の恋』の第一曲目『とても美しい5月』の一節である。
私は1993年から2年間、ドイツ南西部の都市・フライブルクに留学していた。ドイツが再統一した年から3年後のことである。
フライブルクは、黒い森地方の南の玄関口で、スイスとフランスの国境の程近く、住まいは、フライブルクからさらに路面電車とバスを乗り継ぎ、黒い森を通り抜けた所にあるムンツィンゲン村だ。
ワイン畑が広がる緑豊かなこの村の5月は、命の喜びにあふれ、世界がきらめく。鳥たちは歌い、花が咲き誇る。そして、なんといってもこの季節は、ドイツでは珍しい季節の食材が登場する。白アスパラだ。
ドイツの食卓には、自然や季節を感じられるものがほとんどない。肉料理にジャガイモとキャベツの酢漬けが定番メニューで、この組み合わせは、学生食堂で嫌というほど食べさせられた。しかし、5月はどこのレストランでも、ゆで立ての白アスパラ料理とよく冷えた白ワインが提供され、春の訪れを大いに楽しむ。
ドイツの四季には、日本ほど鮮やかな折々の風物がない。ドイツ語にはもともと夏と冬の二語はあったが、春と秋という名称はなかった。あまりにも短かったため、古代のゲルマン人は、春と秋を特に意識しなかったのかもしれない。
それに比べて、日本には太陽や月のリズムからなる二十四節気と七十二候という花や鳥、草木などの自然現象にまなざしを向けた細やかな季節感がある。
そういえば、松尾芭蕉は『おくの細道』へ旅立ったにも旧暦の3月27日、新暦の5月16日である。芭蕉も美しい5月に誘われて旅立ったのだろうか。旅に生き、旅に死んだ芭蕉は、五・七・五の十七音に四季を織り込み、心情や風景を俳句に詠み込んだ。
私もそろそろまた旅に出かけようか。あの白アスパラと白ワインの無縁ループを求めて。
日本における都市の美の不在
なぜ日本では、人を深く感動させる美しい都市が存在しないのか。
ヨーロッパの街を歩いていると、しばしばその美しさに感動を覚える。それに比べて日本は、人間の暮らす都市を自然と調和させ、美しく創造するという発想や意識が欠けている。
2023年3月、東京・明治神宮外苑地区では、一帯の大規模な再開発が本格的に始まった。外苑地区は、東京都心の風致地区として百年近く守られてきた所だ。しかし、東京五輪を機に、建築規制が緩和され、今回の再開発で高層建築が立ち並ぶことになる。目的は、外苑地区を「世界に誇るスポーツクラスター」にするためださそうだ。
この再開発で、低木を含めおよそ3千本もの樹木の伐採が予定されている。再開発が始まる前の2月、先日亡くなられた音楽家の坂本龍一さんが、再開発の見直しを求める手紙を東京都の小池百合子知事らに送った。理由は、百年近い歳月をかけて育んだ自然環境を破壊させることへの懸念である。
日本はバブル期に、建物を壊しては建て替える「スクラップ&ビルド型投資」を行ってきた。建物をどんどん建て替えることで、短期的にカネは循環し、一部の既得権益者と富裕層にのみ恩恵をもたらした。スクラップ&ビルド時代は、バブル経済の崩壊とともに終わったかのように思えたが、近年の東京の変化のスピードは、以前より激しさを増している。いつもどこかで建設工事が行われ、わずか数年で風景ががらりと変わる。結果、同じような風景があちこちに作られていく。
現代の東京の建築に志はあるのか。私はカネに群がる政治家と大企業、投資家がこの国を破壊しているとしか思えない。日本における都市開発は、そのことを目に見える形で表している。
次の時代へと転換する理念や構想力を持つリーダーが不在の日本は、果たしてどこへ向かおうとしているのか。大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返す人工系の都市経営が限界に達している今。都市の人工系と生態系の調和を第一に考えた、未来のあるべき姿を真剣に考えるときが来ている。
無為自然な暮らし方
世の中が変わる乱世の時代、自分自身のあり方の思想といえば、老子と荘子が有名だ。合わせて「老荘思想」と呼ばれ、儒家の礼や徳の重視を人為的な道徳として否定し、「無為自然」を説いた。
さまざまな自然現象を比喩として、無理することのない伸びやかな生き方、力みのない自分という存在の生かし方が語られている。
高いところから低いところへ流れ落ち、器によって形をかえる無色透明な水は、どこへでも行き、形が無い存在なのに、長い年月をかけて、岩のような硬いものも砕く。柔らかでありながらも、じつはしなやかな強さをもつ水は、わたしたち人間のあり方によくたとえられる。
老荘思想の根本の思想が「無為自然」という考え方で、すべてのものが自然から授かり、その為に自然に生き、自分の心と自然を一体にして、無理せず、心安らかに、幸せに生きることを目指した。
頭で考えたつもりになっている状態の「作為」を捨て、「無為自然」に反しない生き方は、老子の思想を支える重要な概念である「道」に集約されている。
道とはどんな定義にも収まらない生命原理であり、全ての命がそこから出てくるものだ、と言える
混沌として一つになったエトヴァスが、
天地開闢の以前から存在していた。
それは、ひっそりとして声なく、ぼんやりとして形もなく、
何ものにも依存せず、何ものにも変えられず、
万象にあまねく現れて息むときがない。
それは、この世界を生み出す大いなる母ともいえようが、
わたしには彼女の名前すら分からないのだ。
仮に呼び名を道としておこう。無理に名前をつければ大とでも呼ぼうか。
この大いなるものは大なるが故に流れ動き、
流れ動けば遠く遙かなひろがりをもち、
遠く遙かなひろがりをもてば、また、もとの根源に立ち返る。
『老子』第25章
エトヴァスとは、ドイツ語で「何か」という意味で、英語なら「サムシング」。名前のつけようのない「何か」に、あえて言葉を与えたのが「道」という表現だ。いいかえれば「万物の根源」、「自然の法則」と言えるかもしれない。わたしたちの感覚を超えた大きな何か。わたしたちはこの「何か」の力によって生かされている。
「道」は、鳥たちのさえずり、木々を揺らす風、形を変えながら浮かぶ白い雲のような、一見何気なく感じられる日常の中の風景に潜んでいる。それを言葉にして伝えることは難しく、言葉にしまうといつの間にか消えてしまう。
わたしたちが「無為自然」になったとき、心をオープンにしたとき、「道」はそっと姿を現してくれる。
先入観や何かにとらわれることなく、水のように生きることはとても難しいけれど、少しだけ立ち止まり、深呼吸をしてみると、今まで気づかなかった鳥のさえずりや木々の葉を揺らす風の音が聞こえてくる。
そんな時間を少しでもいい。毎日の暮らしの中に取り入れてみると、見える景色、感じるものが次第に変わってくる。
Sense of wonder。世界は不思議さと驚きに満ちているのだから。
※先入観やとらわれた枠から解放するアート思考
第9期アート思考基礎講座が6月23日に開講
https://peatix.com/event/3225578/view
自分を超えた知覚と絵画
東京都美術館で「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を開催している。17世紀オランダを代表する画家ヨハネス・フェルメールの初期の傑作《窓辺で手紙を読む女》の画中画の壁面にキューピッドが描かれた画中画が塗り潰されていることが1979年のX線調査で判明。フェルメール自身が消したと考えられてきたがその画中画はフェルメールの死後、何者かにより消されていたという最新の調査結果が、2019年に発表された。
今回その修復プロジェクトの過程と修復後の《窓辺で手紙を読む女》が見られるとあって、美術館は大いににぎわっていた。
私とフェルメールとの出会いは『牛乳を注ぐ女』の絵を雑誌か何かで観たことだった。実際の絵を観たのは何年もあとだったけれど、女性がデルフト焼きの陶器で注意深く牛乳を注いている、何気ない一瞬をとらえた絵だが、本物と見間違うほどの見事な質感と不思議な静寂に包まれたこの絵の世界にどんどん引き込まれていった。
絵には目には見えない様々なものが織り込まれている。作者のメッセージはもちろんのこと、生活のにおいや、時代精神や時代背景、また未来の予感など心の目を開いてみると、そういったものが直観的にからだを通してやってくる。この感覚がたまらなく愛おしくて、この絵の故郷を旅したくなる。どんなところでこの絵が生まれたのか、同じ景色をみたくて、確かめたくて。
絵を観ることと生きることは時に重なる
生きるとは、人生とは何かを問うことではなく、人生からの問いに応えることだと『夜と霧』の著者ヴィクトール・フルンクルは言った。人生は、いつも真摯な応えをもとめてくる、というのである。
絵も生きることに似ている。絵は、鑑賞者が様々な感情に触れる機会与えてくれる、と同時に様々なことを問いかけてくる。絵との対話を重ねることで、現実世界に存在する人々に対しても、自分を超えた知覚を持てるようになる。それを私は直観的感覚または共感力と呼んでいる。
美術館に飾られているものだけがアートではない。日常の中にもたくさんのアートが埋め込まれている。感覚を研ぎ澄まして日常の中にあるアートを再発見してみてほしい。アートは、あなたに発見されることを待ちわびているのだから。
第8期アート思考基礎講座
2022年4月14日開講
星野道夫『旅をする木』
写真家、故星野道夫に魅かれて彼の著書『旅をする木』を読んでいる。1999年に出版され、今年で第52刷という、多くの人から愛されている名著だ。
1997年に公開された、龍村仁監督の映画『ガイアシンフォニー第3番』の中ではじめて、アラスカの自然を撮り続けた星野道夫と出会い、24年の時を経て、最近、再び『ガイアシンフォニー第3番』を観る機会を得た。
驚いたのは、最初に観た時と感動の深度がまったく異なっていたことだ。「生きること」と「いのち」の重さをずしりと感じ、その重さの中に美しく、愛おしい魂の輝きを痛いほど感じたのだ。
自分がいかに薄っぺらで、危うい平和もどきの社会の中で、「精一杯生きている振り」をしているのかを思い知らされ、正直、恥ずかしささえ感じた。
『旅をする木』には抱きしめたいような言葉がたくさん書かれている。だから何度でも同じところを読み返したくなる。何度も、何度も。
”カリブーの仔どもが寒風吹きすさぶ雪原で生み落とされ、一羽のベニヒワがマイナス50度の寒気の中でさえずるのも、そこには生命のもつ強さを感じます。けれども、自然はいつも強さの裏に脆さを秘めています。そして、ぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつ、その脆さの方です。
日々生きているということは、あたりまえのことではなくて、実は奇跡的なことのような気がします。”
「旅をする木」より
人工物囲まれ、守られた生活をしていると、生存本能や本当の自然の姿から遠ざかってしまい、本来、人間が持っているはずの原初的感覚をどんどん失ってしまっている。そして、私たちはますます孤立していく。
「人間は、ある限界の中で生かされている。私たちはそのことを忘れがちである」と、星野は言う。
その限界を超えようとして行っていること(誤ったテクノロジー開発や過度のグローバル資本主義経済)が、ますます混乱を引き起こしている。私たちは「限界」をもっと謙虚に受け止め、不合理で重畳で、無駄が多く、混沌に満ちあふれ、危ういバランスの上に、かろうじて成り立っている流動的なこの自然の中で、どのように、この「いのち」をつないでいったらよいのかを考えなおすときがきている。
私たちがもつ“Sense of wonder”(神秘さや不思議さに目を見はる感性)を思い出し、自分たちの生命力を信じ、今までの既成概念から自分たちを解き放てば、世界はもっと輝いてみえるはずだ。
<アート思考入門講座開催日>
12月6日(月)・17日(木)・2022年1月7日(金)・13日(木)・17日(月)・19日(水)
日本人はクリエイティブなのだ
2012年にアドビが実施した調査によると、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、日本の5か国中で「最もクリエイティブな国」は米国を押さえ日本が1位だった。東京はNYを押さえ「最もクリエイティブな都市」に。しかし、日本人に同じ質問をすると、日本は最下位。私たちは自分たちのことを「クリエイティブ」」だとは思っていない。
「クリエイティブ」に憧れを抱きながら、自分にはないものと思っている人が、案外多いのではないかと思う。
2007年The Gallup Organizationの調査で、「自分の強みを毎日使っているか?」という質問に対して、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、中国、インド、カナダ、日本の8か国の平均は23%だった、日本はわずか15%で、85%の日本人は自分の強みを発揮できていないことをしているという結果になった。
日本人は強みを発揮するより、弱みを克服することに意識が向いているからではないかと思う。そもそも自分の強みや個性、独創性というものを知らないではないかと思う。
まずは自分を発見することからはじめると面白い。自分と、自分をとりまく周りの世界は、驚きと不思議にあふれていて、まるでアート作品のよう。自然はやはりアーティストだ。
今日は少し、日常の中で何気なく眺めていて風景を違うまなざしで眺めてみよう。緑の葉の中にラビリンスがあり、木の幹は点描画のキャンバスとなり、取り巻く大気なしには誰も生きることができないことに気づく。
毎日を嘆くよりも、感謝しよう。不満を数えるよりも、奇跡を数えよう。それが世界を変える秘訣だから。
ビジネスの世界にもアート思考の波がやってきた!
近年、ビジネスの世界においても、アートへの関心が高まっています。実はビジネス界でアート思考が注目されてからすでに15年以上が経過しています。2004年にはハーバード・ビジネス・レビューで「The MFA is the new MBA」(MFA=芸術学修士は新しいMBAである)と題した記事が掲載されました。その後、英国の経済紙フィナンシャルタイムズは、2016年11月13日に掲載された「The art school MBA that promotes creative innovation」(美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する)と題した記事で、アートスクールや美術系大学によるエグゼクティブトレーニングに、多くのグローバル企業の幹部を送り込みはじめている実態を報じています。
これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足おいた経営では、今日のような複雑で不安定なVUCA時代の世界において、ビジネスの舵取りは非常に難しくなってきているということなのでしょう。また世界を見渡してみると、全地球規模での経済成長が進展しつつあります。今や世界の市場は、消費ではなく、人の承認欲求や自己承認欲求を刺激するような感性や美意識が高まりつつあり、「モノ・コトの時代」から「物語の時代」へと変わりつつあります。
振り返ると、この動きは1998年を境に起こりはじめています。この年、これ以降の世界の価値観を大きく変えるあるものが誕生しました。Google です。
1998 年 8 月、サン マイクロシステムズ社の共同創始者であるアンディ ベクトルシャイム氏が 10 万ドルの小切手をGoogleの創業者ラリーとサーゲイに発行しました。Google Inc. の正式な誕生です。これは20世紀の成長社会から21世紀の成熟社会へと変わった象徴的な出来事であり、グーグル誕生以降、多様化、複雑化、変化の激しいVUCA時代に突入していきます。
私たちの価値観は「みんな一緒」から「一人ひとりの違い」へ変わり、たとえば、男の子は黒、女の子は赤という定番だったランドセルは、今や、赤、ピンク、ブルー、黄色、茶色、薄紫など、自分の好みに合わせて自由に選択するようになりました。結婚式の引き出物も、以前は式が終わると全員に同じ品物が手渡され、帰り道、ほろ酔い気分で電車に乗って、車内に引き出物を置き忘れてしまったなんてこともありましたが、今はカタログから好きなものを選ぶようになり、もう電車の中に置き忘れるようなことはありません。
ビジネスの現場は、正解のない時代に入り、様々なコトやモノを編集し、つなげることで新しい価値や答えを生み出す能力が求められるようになりました。今までの古い価値観、世界観から抜け出し、直観的、感性的な創造性を育み、やわらかでしなやかな頭と心を鍛える「アート思考」は、まさに今の時代にもっとも求められているスキルのひとつなのです。
私たちは子ども時代、みなアーティストでした。子どもの頃の感受性を思い出すことで、私たちはいつでもアーティスに戻れます。そのためにも、神秘さや不思議さに目をみはる感性「Sense of wonder」をもう一度呼びおこす必要があります。この大いなる自然への畏怖の念、それこそが、アート思考の源泉なのです。
森夕花
ライフコーチ/Philoarts主宰
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