春のどんぐりヴィレッジ——大地に触れて思い出すこと
春になると、土も、草も、花も、眠っていたものを静かに目覚めさせていく。
人の身体の中にもまた、季節とともに呼び起こされる感覚があるのかもしれない。
先週、久しぶりにどんぐりヴィレッジ&ケアファームを訪れて、そんなことを思った。

春のポレポレには、草花たちが思い思いに咲いていた。
ヒメオドリコソウ、ムラサキハナナ――その小さな花々は、畑の野菜たちと場所を分け合い、競うことなく、ひとつの風景をつくっている。
そのありようを見ていると、自然界には、人間がつくり出したような無理な境界は本来ないのだと感じる。
それぞれがそれぞれの役割を生きながら、全体としてひとつの調和を生んでいる。
まるで、小さな命たちが沈黙の交響曲を奏でているようだった。

今回はビニールハウスで、育苗ポットにキャベツやピーマン、パセリの種をまいた。
小さな種をひとつひとつ土に託すという行為は、未来に向かって祈りを置いていくことに似ている。
芽吹くかどうか、育つかどうか、そのすべてを人間が決められるわけではない。
けれど、それでも手をかける。
整え、願い、委ねる。
農の営みには、人間の傲慢さを鎮める静かな教えがある。
土に直接触れると、不思議なことに手がすべすべになる。
天然のスクラブのよう、と言ってしまえばそれまでだけれど、それだけではない気がする。
土に触れていると、指先や手のひらから、忘れていた感覚が戻ってくる。
土に触れると汚れる、手が荒れる――そんな先入観の奥で、私たちはいつのまにか自然そのものに触れることを恐れるようになっていたのかもしれない。
けれど本当は、人の身体もまた自然の一部だ。
私たちは土から遠く離れて生きているのではなく、土に支えられ、土に養われ、土へ還っていく存在である。
土に手を入れると、その当たり前のことを身体が先に思い出す。
そこには「自然と共に生きる叡智」や、「身体の中に眠る自然」が、まだ確かに息づいている。
本当の豊かさとは、所有することではなく、こうして世界とのつながりを取り戻していくことなのかもしれない。

雨が降り出す前には、新しく借りた田んぼの整備もした。
その場所には草が鬱蒼と生い茂り、不法投棄までされていた。
耕すことをやめ、関心を失った土地に、人は簡単にごみを捨てる。
ものの価値を見失うとき、人は土地をも、自然をも、沈黙する存在だからといって軽んじてしまうのだろう。
けれど、土地はただの空間ではない。
そこには風が通り、水が巡り、虫や草や微生物たちの命があり、見えない時間の層が折り重なっている。
土地は、売買や所有の対象としてだけあるのではなく、いのちを受けとめ、育み、返していく場であるはずだ。
本来、人間はその支配者ではなく、世話を託された者なのではないかと思う。
大地のお世話係。
その言葉は、どこか懐かしく、そして厳かに胸に響く。
どんぐりヴィレッジ農園主の藤井さんと二人で草を刈り、荒れた土地に少しずつ手を入れていった。
そうしていると、土地はまだ死んでいないことがわかる。
手をかければ応えてくれる。
傷ついていても、なおよみがえろうとする力を秘めている。
その姿は、人の魂にもどこか似ているのかもしれない。

どんぐりヴィレッジの畑や田んぼと関わっていると、
感謝すること、育てること、守ること、慎んで受け取ること――それらがみな、ひとつの祈りの中にあるように思えてくる。
生きるとは、自分ひとりで成り立つことではなく、見えるものにも見えないものにも支えられながら、この世界の循環の一部として在ること。
土に触れることは、そのことを頭ではなく、肌で思い出させてくれる。

秋の収穫に向けて、今年の米づくりもすでに始まっている。
これから陽の光を浴び、雨に打たれ、風に揺れながら、稲は育っていく。
その実りは、人間の努力だけではなく、天と地のはたらきの中でもたらされるものだ。
だからこそ収穫は、成果である以上に、恵みなのだと思う。
今年はどんなお米が実るだろう。
春のはじまりに土へ触れた手の感覚を思い出しながら、その日を静かに待ちたい。
冬至を迎える土鍋ごはん
今夜は冬至。
一年でいちばん夜が長い日。
冬至は、終わりではなく
光が生まれ直す節目です。
火・土・水がひとつになる土鍋で
ごはんを炊く時間は
命を結び直す祈りのよう。
土鍋ごはんとともに、
静かな冬至の夜を迎えると
きっと、すてきな月の台所になります。

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冬至の灯(ひ)
一年でいちばん夜が長くなる日。
村は早くから闇に包まれ、
太陽は世界から姿を消したかのようでした。
人々は昔からこの日を恐れ、
そして同時に、大切にしてきました。
「必ずまた、光は戻ってくる」と。
村はずれの古い家で、
ひとりの老女が、毎年、冬至の夕暮れになると
必ず土鍋を火にかけました。
鍋の中には、米と水、梅干しがひとつ。
老女は静かに言います。
「火よ、土よ、水よ。
命をもう一度、結び直してください。」
火は鍋を温め、
土の鍋は熱を受け止め、
水は米をほどき、やがてひとつに溶け合っていく。
夜が深まるころ、村の子どもたちが老女の家の前に集まった。
闇が怖くて眠れないのだ。
老女は子どもたちに粥を分け、
小さな灯りのそばでこう語った。
「冬至はね、終わりの日じゃない。
太陽が生まれ直す日なんだよ。
いちばん暗いところで、光は力を蓄えるの。」
子どもたちは湯気の向こうに、
見えない太陽の気配を感じた。
その夜、村の誰もが知らぬ間に、
太陽はほんの少しだけ、帰り道を見つけていた。
翌朝。
空は変わらず寒かったが、
人々の胸の奥には、確かなぬくもりが残っていた。
冬至とは、
光が勝つ日ではなく、
光を信じることを思い出す日なのだ。
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冬至の土鍋ごはんは、
特別なごちそうでなくていい。
静かな火と、土の器と、
今日ここにある命を感じながら。
光は、もう戻る準備をしています。
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冬至の土鍋ごはんは、
体を休め、静かに力を養う一杯にしました。
「梅干しとサラダチキンの玄米まぜごはん」
<材料>
玄米・・・2合
梅干し・・・10g
水・・・600ml
かつお節・・・適量
A:サラダチキン・・・150g
梅干し・・・10g
大葉(せん切り)・・・4~6枚
オリーブオイル・・・10ml
<作り方>
①Aの梅干しの種を除き、包丁でたたいてペースト状にする
②サラダチキンの繊維をほぐし、Aを合わせて和える
③洗ってしっかり玄米を分量の水に塩をひとつまみ入れ12時間つけておく
④土鍋に③を入れ、梅干しをのせておく
➄はじめは中火で約12~16分(吹きあがるまで)
⑥あとは弱火で約25分
⑦火を止めてそのまま15分程度蒸らす
⑧蓋をあけて、梅干しの種を除いて。梅肉が全体に回るようにざっくりと混ぜる
➈Aをのせ、かつお節を添える

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冬至の土鍋ごはんは、
特別なごちそうでなくていい。
静かな火と、土の器と、
今日ここにある命を感じながら。
光は、もう戻る準備をしています。
十三夜の祈り
昨日のお月さまは「十三夜」。
この夜の月は、満月──いわゆる旧暦8月15日の「十五夜」に次いで美しいとされ、
月を愛で、自然の恵み(収穫・季節の移ろい)に感謝するという、日本独自の月見文化のひとつです。

十三夜では、収穫期の栗や豆をお供えする風習があり、
「栗名月」「豆名月」という別名もあります。
十三夜の“少し欠けた月”を愛でる風習は、日本ならではのもの。
「十三夜」「十六夜(いざよい)」──
欠けているからこそ、移ろいゆく美しさを感じる。
この感性は、日本独自の
「不完全の中の完全」という美意識につながっています。
―「時間」ではなく「リズム」で生きる―
いま世界では、思考(太陽的・理性)が優先され、
心のリズムが置き去りにされています。
現代の時間は、時計とカレンダーによって区切られた機械的時間(クロノス)。
古代の人々は、太陽・月・季節・潮・呼吸といった
生命のリズム(カイロス)の中で生きていました。
古代の叡智は、
外のリズム(宇宙)と内のリズム(身体・心)を一致させることを教えています。
古代人は身体を「魂の神殿」として敬い、
身体感覚こそが宇宙とつながる“アンテナ”であると知っていました。
インド占星術では、心(Manas)は月(Chandra)と結びついています。
月が満ち欠けするように、心もまた変化し続けます。
古代の叡智は、その変化を悪とせず、流れとして受け入れることを教えています。
太陽暦では季節が固定されていますが、太陰太陽暦(旧暦)は毎年少しずれます。
この“ゆらぎ”を意識して暮らすことこそ、古代の叡智を取り戻す第一歩。

「月は欠けても、光は満ちている。
すべてのゆらぎの中に、真理は息づいている。」
― リシたちの叡智より
私たちは「自然と共に生きる」だけでなく、
自分自身が自然であり、宇宙の表現そのものなのです。
カオス(混沌)は再編の前触れか?
只今、私はカオスの真っ只中である。
予想していたことが次々に現実化されると、改めて「宿命」の力に驚かされる。
カオスは決してネガティブなことではない。カオスには不思議な真理があるからだ。

―カオスとは「再編の前触れ」―
宇宙も生命も、“カオス”から生まれたとされている。
秩序が壊れ、境界が曖昧になるとき、
新しい形が、まだ見ぬ流れが、ひそかに育っている。
カオスは、古くなったパターンや手放すべきものを揺さぶり、古い自分が崩れ、新しい自分が生まれようとする、再編の前触れなのかもしれない。
まさに、それは““脱皮”である。
蝶になる前の蛹は、一度すべてを溶かして、静かに内側で変容する。
外からは何もしていないように見えても、実は内側では最も重要な変化が起きてい。。
― imaginal cells(イマジナル細胞)―
蝶の幼虫(芋虫)は、蛹になるとき、
一度すべての身体の組織を液体状に「溶かす」。
筋肉も内臓も、まるで「ゼロ」に戻るかのように。
この細胞たちは、「蝶になる未来の設計図」を持っている。
イマジナル細胞は、芋虫の中にいたときは沈黙しているが、
壊れて初めて目覚める。
蛹の中で、過去のすべてがいったん溶かされ、そして新しい生命体が静かに生まれていく。変態(metamorphosis)」は「可能性(imaginal cells)」の覚醒と統合によって生まれる。
芋虫が蝶になるのは、ただの成長ではなく、
自我(芋虫)が崩壊し、本質(蝶)の設計図が表舞台に立つという、
「死と再生」「古い自己の解体と魂の顕現」である。
私たち人類も、幼虫という古い世界から、蝶という軽やかで新しい世界へと移行しようとしている。

― 創造とは、いったん“壊れ”、そして“還る”こと ―
創造とは、いったん“壊れ”、そして“還る”こと。
星も、爆発(超新星)によって次の星を生み、森も、朽ちた木の栄養から新たな命を育て、人間も、古い自分が壊れてこそ、本質の光が立ち上がる。
「終わり」は「始まり」の別名。そして、「カオス(混沌)」は、宇宙が新しい秩序を紡ぐ前の静かな舞台。
13世紀のイスラムの神学者であり、ペルシャ文学史上最大の神秘主義詩人のジャラール・ウッディーン・ルーミーのこんな言葉を思い出す。
“Try not to resist the changes that come your way.
Instead, let life live through you.”
「訪れる変化に抵抗しようとせず、
代わりに、人生があなたを通して生きるのを許しなさい。」
さて、カオスの真っ只中の私は、果たして無事、変態(metamorphosis)」できるのか?
静けさの中でしか、真実の声は聴こえない。
静けさの中でしか、魂の命令は受け取れず
本当の創造力は生まれない。
だから今は、外ではなく「内なる力」を蓄えよう。
愛と祈りと共に。
― 雑炊と雨音 ―
朝から静かに降る雨は、私の中の音を消していく。
街のざわめきも、昨日の焦りも、まるでこの雨に溶けていくようだった。
しばらく前から白湯とお粥を、体調に合わせて取り入れた。
ずっと体が重くて、疲れやすく、アーユルヴェーダのドーシャでいう、
「カパ」が増大していたのだ。
カパが増大すると、ちょっと鬱々としてくる。
今朝、歯を磨いていたら、舌の苔が薄くなったことにふと気づく。
それは、体がようやく何かを手放しはじめた合図。
白湯とりんごで始めた朝の静けさが、じんわりと体を包み、
今日という一日の輪郭をやさしく描きはじめる。

雨の日が嫌いではない。
外の世界が沈黙し、内なる声がそっと浮かび上がってくる。
雨音は、自然の呼吸。
そのリズムに耳を澄ませていると、
私もまた、この世界の営みの一部だと思い出せるのだ。
昼は雑炊を作ろう。
梅と生姜と三つ葉を添えて。
それはただのごはんではなく、
今日のわたしを調える、小さな祈りのかたち。
月の台所@Lila.G
もし月がなかったら
もし月がなかったら
もし月がなかったら、地球はまったく異なる姿になっていた
地球は約23.4度の傾いていて、これが季節を生み出している
この傾きを保てているのは月のおかげだ
もし、月がなければ地軸は大きく揺れ動き、氷河期や灼熱期の急変が頻発することもあるらしい。
もし月がなかったら、多くの海洋生物の進化が遅れたり、そもそも生命が誕生しなかったかもしれない。

月は地球の自転を徐々に遅らせる役割もしているから、
もし月がなかったら、1日の長さがもっと短かかったかもしれない。
もし月がなかったら、神話や詩、美しい物語が語られることはなかった。
アルテミス(ギリシャ)、ツクヨミ(日本)、チャンドラ(インド)──
もし月がなかったら、人間の祈りのかたちも、もっと「力や勝利」を求めるものが中心だったかもしれない。
もし月がなかったら、夜はただの暗闇となり、光と影のリズムを忘れた地球は
深呼吸の仕方を忘れてしまうかもしれない。

月があるから
夜が怖れの時間ではなく、静けさと再生の時間へと変わり、
私たちの心の奥に、
目には見えない「ひかり」がいつも在ることを、思い出させてくれる
月の台所①
明日、2025年5月13日は、蠍座で満月を迎えます。
深く、感情的で、魂の奥を照らすような満月。
蠍座での満月は、感情・執着・深い再生のテーマが色濃く現れる満月です。
深く沈めていた感情が、月に照らされて光になる。
怒りも哀しみも、消すのではなく、静かに抱きしめて。
蠍座の満月は、“強さ”ではなく“ありのまま”の受容を教えてくれます。
蠍座での満月は、感情・執着・深い再生のテーマが色濃く現れる満月です。特に内なる「本音」や「真実の感情」が浮かび上がる時として、とても象徴的なタイミングです。
そんな満月の夜に、満月に満ちた感情を「静かに溶かす白湯のレシピ」と
「心を癒すおかゆのレシピ」をご紹介します。

『黒ごまと生姜の 静けさ白湯』
材料(1人分)
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白湯(200ml)
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黒ごま(小さじ1・すりごまでもOK)
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すりおろし生姜(少々)
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自然塩(ごく少量)
作り方
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白湯を用意する(少し熱めが◎)
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黒ごまと生姜、塩を湯飲みに入れる
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白湯を注いで、香りを吸い込むように飲む
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飲みながら、今夜は「ありがとう」だけを唱えて
『小豆ともち麦の満月がゆ』
材料(2人分)
作り方
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小豆は10分ほど下茹でする
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米・もち麦・水・小豆を鍋に入れて、弱火でコトコト炊く(40分ほど)
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塩で整え、ふんわりよそって
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ゆっくり一口ずつ、「今日という日」に感謝を込めて食べてください
感情の浄化と再生が深く起きるとき。ありのままの自分を受け止め、静かに抱きしめてあげてください。
ゆうか@月の台所