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藝術と日常の物語

侘び寂びが地球を救う? Wabi-Sabiの世界

侘び寂び(わびさび)。

このたった四文字の奥に広がる宇宙を私はいつも感じる。

“わびさび”は、近年、西欧社会で“Wabi-Sabi”と表記され、日本の魅力として認知されつつあるけれど、外国の人に「わびさび」について聞かれても言葉に詰まる。

感覚的にはわかっていても、いざ定義しようとするととても難しい。この不思議な四文字の言葉の持つ広がりと深みは、古ぼけた、かび臭い、遠い昔に忘れ去られたものではなく、西欧合理主義を植え付けられ、常に合理性、生産性を求められる「余白の無いデジタル時代」に生きる私たちにとって、一筋の光であると思う。

 

「わびさび」は、奈良時代末期に成立した日本に現存する最古の和歌集である「万葉集」で、すでに「思いわぶ」「わび暮らし」という言葉が使われていたようだ。ものの寂れた様子や厭世的で、どこかあきらめを含んだマイナスの意味で使われていたけれど、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、その意味は大きく変化する。「侘しさ、寂しさ」が肯定的な意味でとらえられるようになったのは、この時期隠遁して、現世から離れ、山に入り、精神的な暮らしをする隠者や、旅をしながら遊行をする僧の出現と深く関わっている。

世捨て人のような隠者や僧は、人生の儚さを感じ取る感性が豊かで、やがて「侘び寂び」は美意識と繋がっていく。その後、室町時代の戦乱の世では、物質的な豊かさに背を向け、欠乏を理想として心の安定を求める心が生まれ、やがて「わび茶」が生まれる。

 

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 わび茶の精神はそれまでの「茶の世界」を変え、千利休で極まるが、利休はかなりユニークな茶人で遊び心を持った人だったようで、「自分にしかできないもてなしをする」ことを心がけ、空間を総合演出し、プロデュースする達人だった。様々なエピソードを持つ利休は「侘び寂び」を美学にまで昇華させ、「割れた茶碗も風流です」という言葉どおり、割れたものや不完全なものにこそ美があるという美意識は、私たち現代人が忘れてしまった、ごく自然な感覚であり、日本人である私たちの中に、静かに、しかししっかりと刻まれている感性であるように思う。

 

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そもそも私たちは自然の一部であり、いつ死ぬかさえもわからない、常に不確実性の中に生きる存在である。だから“ゆらぎ”のないデジタルの世界では、生きられないし、それを強いられた時点で、私たちの人間性は失われてしまう。

 地球は様々な生命が輝く素晴らしい惑星。その素晴らしさを感じるのも、守るのも、そして破壊するのも人間である。

私たちは今、立ち止まり、深く息を吸い、もう一度自分たちの手に古来の伝統と自然を取り戻し、自分はどんな生き方をしたいのかを感性を使って感じ、謙虚に生きる必要がある。

その中心にはエコフィロソフィーの1つである「侘び寂び」という美意識が、大いなる智慧となって私たちを導いてくれるだろう。