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藝術と日常の物語

やっぱり猫が好き💛

猫は家の境界線をスイスイと軽やかに超えていく。こっちにおいでよ、と私を誘うけれど、人間にはルールがあってそこを越えられない。

猫は自由でしなやかで、ちょっとツンデレなところがたまらなく可愛い。やっぱり私は猫が好きだ。

私は動物の心の声を聴くことができる、と思っている。実際に、いくつもの不思議なこと、奇跡的なことを体験している。

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最初に動物の心の声を聴いたのは、私は中学生の頃だと記憶している。

横浜の実家を建て直す前、庭に面した広い縁側があった。一緒に暮らしていた祖母は、いつも縁側の戸を開けて、庭で日向ぼっこをしながら編み物を編んでいた。

この縁側の戸はいつも開いていて、今考えるとよく泥棒に入られなかったと思うが、昭和という時代は、どこかそんなのどかさがあった。

泥棒は入ってこなかったが、その代わりに近くに住む野良猫が、忍び足でやってきていた。テーブルの上の焼き魚をくわえ、走り去っていく猫の姿を私は何度か見たことがある。そのたび、祖母は「このねご~!!」と叫びながら追いかけていく。まるで漫画「サザエさん」そのものだ。

 

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しかし、ある日、その猫が子猫を連れて庭にやってきた。どこか神妙な面持ちの親猫は、何か言いたそうに私の顔をじっと見つめていた。私がそっと近づいても逃げようとせず、ただ私をじっと見つめていた。

 「この子の面倒を見てください」

 言葉が聞こえた。というか、私の心の中に現れた。親猫がしゃべった?半信半疑のまま、私は親猫に声をかけた。

「この子の面倒をみて欲しいの?」

「そう」という言葉が聞こえた。

心が通じたと思ったのか、親猫は子猫を連れて私から遠ざかっていった。私が少し、追いかけたとき、親猫はくるっと振り返り「約束だよ」と言った。

私にはそう聞こえた。

それから二度と、その親猫がうちの庭に来ることはなかった。その代わり子猫が庭を訪れるようになり、私は約束通り、子猫が来るとご飯をあげるようになった。

それからというもの、庭にくる野良猫はあの親猫の子孫かもしれないと思い、来るものは拒まずという感じで、なんやかや面倒をみることになった。

 猫と人間のコミュニケーションというと、何か特別なことのように思うかもしれないが、結局は人間同士のコミュニケーションと何ら変わらない。

大切なことは聴くこと。ただただ、思いに耳を傾けること。耳を傾けるとき、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる。人は話を聴きながら、頭の中で常に判断や自分の意見を考え、いつそれを口にしようかと思いながら聴いている。

素直な動物たちは、それをすぐに見抜く。

自分自身の内なるものを完全に沈黙させて話を聴く時、自分自身が相手を受け入れるという“器”となる。この時お互いの心は一体となり、聴こえない心の声までもが聴こえるようになる。

HR総研が2019年に行った「社内コミュニケーションにおける調査」によれば、コミュニケーションに課題を感じている企業が約8割を超えているという。さらにコロナ禍でテレワークが進み、コミュニケーションの機会は減る一方。メールやチャットで済ますのではなく、時にはきちんと相手と対話をすることも大切だ。

私たち人間は、孤独な生き物だ。所詮、ひとりでは生きられないのだ。

 

 猫は自由だ。私たちの心も自由だ。

心の境界線をするりと超えて、日々是好日。