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藝術と日常の物語

レンブラント・ファン・レインの自画像

美術館でその自画像を見たとき、その「まなざし」から目が離せなくなってしまった。深く刻まれた皺と人生の荒波を乗り越えてきた、どこか達観したようなまなざし。浮き沈みの激しい人生の中で描かれただろう自画像。

画家の名はレンブラント・ファン・レイン(1606~1669)。生涯にレンブラントが描いた自画像はデッサンを含めると相当の枚数になる。その複雑な表情から彼の内面のドラマと物語を感じとれ、彼の特徴である光と陰の強調がさらに、そのドラマを演出している。

自分を見つめることは、自分自身を知ろうとすること。鏡に映った自分を見ることが苦痛に思うこともあり、楽しく思うこともある。

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1629年の自画像 23歳

レンブラントはどんな思いで、自画像を描き続けたのだろう。1668年、62歳の時に描いた「笑う自画像」は、人生の栄光と苦難を経験し、すべてを悟ったかのような微笑みを浮かべる老年の姿が描かれている。翌年、レンブラントは生涯と閉じる。

レンブラントの人生を自画像で振り返ったとき、写真では感じることができない心情が見事に表現されていて、彼の人生を一瞬にして感じとることができる。

 

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1668年の自画像 62歳『笑う自画像』

絵画は、鑑賞者が様々な感情に触れる機会与えてくれる。絵画を鑑賞することで、様々な人間の感情に触れ、共感力が高まる。絵画を深く鑑賞することで、現実世界に存在する人々に対しても、自分を超えた知覚を得ることができ、その感覚は「慈愛」に通じ、私たちは分離された存在ではなく、全体性(ホールネス)であるという本質へと気づかせてくれる。

もし絵画を鑑賞する機会があったら、描かれている人物が「どんな人」で「どんな性格」で「どんな人生を送っているか」想像しながら鑑賞してみると、その絵はあなたの忘れられない1枚になるだろう。

アートと哲学

アートと哲学。

この2つは私がとても惹かれるもの。2つとも「難しいそう」と思われていますが、アートと哲学はよく似ていて、私たちの人生に無くてはならないものです。

では、アートと哲学に共通しているものは何でしょうか?という質問の前に、そもそも「哲学とは何ぞや」ってことですね。もちろん様々な答えがあると思います。

実は、アート思考だけでなく、今、哲学を学ぶ人が増えているのです。それはなぜでしょうか?

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それは私たちを取り巻く社会環境やビジネス環境の変化が大きく関わっています。今、私たちは「VUCA(ブーカ)」という言葉に象徴されるような時代を生きています。VUCAとは、ビジネス環境や市場、組織、個人などあらゆるものを取り巻く環境が変化し、将来の予測が困難になっている状況を意味する造語のことです。「Volatility:変動性」「Uncertainty:不確実性」「Complexity:複雑性」「Ambiguity:曖昧性」という、4つの単語の頭文字から成ります。要するに、既存の価値観やビジネスモデルなどが通用しない時代のことです。

 

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私たちは教育も含め、正解を暗記し、その通りに行動できるよう教えられてきました。しかし、これからは新しい価値を創造していくことが求められます。それも洞察や問いによる本質的な価値の創造です。

ここがまさにアートと哲学が求められている理由です。

 

哲学は、まさに『考える』ことです。今までにない新しい『価値』を生み出たり、既存の価値を解き明かすことでもあります。詩的にいうと、「混沌の闇から光を見出すこと」と言ってもよいかもしれません。アートも人間が作り上げた既存の価値の破壊であり、自然の素晴らしさと驚きを感じる感性により世界を見つめ直す行為です。

その点でアートも哲学も日々の営みそのものなのです。

 

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世界はサムシンググレートが創造した最高のアート作品です。それを受け継いだ私たちは、これからどのようにそれを発展?もしくは破壊?させていくのでしょうか。

私たち人間だけでなく、地球上に住むすべての生命と協力して、もう一度最高のアートを創造していきたい、それが私の願いです。

 

 

 

 

おとな芸大生誕生!!

久しぶりのブログ更新で、タイトルも内容も模様替えしました。

というのも、2021年4月に京都芸術大学通信教育学部芸術学部芸術教養学科に編入したのであります(^^)/

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京都芸術大学外苑キャンパス

もともと音楽学校出身で、ドイツ留学中もヨーロッパ各地を旅行する時は必ず現地の美術館や博物館に立ち寄っていました。

アートが生まれる文化・歴史的背景にも興味があって、ぶらぶら旅をしながら、その土地々のアートとの出会いを楽しんでいました。

アートは美術館のような特別なところにあるのではなく、私たちの日々の暮らしの営みの中にある。

1962年に『沈黙の春』を書いたアメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンが、そのことを「Sense of  wonder」という言葉で表現しました。同名の本が、レイチェル・カーソンの死後、友人たちによって出版されています。

その本の中で、Sense of  wonderは「神秘さや不思議さに目をみはる感性」と訳されています。アートはまさしく、Sense of  wonder。この世界の素晴らしさと、自分の中に眠っている可能性を教えてくれます。

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『センスオブワンダー』

ちなみに、『沈黙の春』は世界で初めて化学物質が環境に与える危険性を告発。この本をきっかけに、アメリカ政府はDDT有機塩素系の殺虫剤、農薬)の使用を禁止する法律を制定されました。

 

新装開店の『おとな芸大生 アートな日々』は、毎月、5と0のつく日に更新します。

芸大の授業や仕事を持ちながら芸術を学び直すこと、私が開催しているアート思考講座のこと、アートやデザイン、文化、伝統、歴史のことについていろいろ勝手気ままに自由に書きますので、お付き合いくださいませ<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

駆け込み無料食堂 北千住の「ウチワラベ」

コロナが落ち着いたら行ってみたいお店がある。

北千住にある「銀鮭専門割烹兼駆け込み無料食堂ウチワラベ」だ。築70年の古民家に昨年1月にオープンした。

宮城県石巻市の銀鮭を使った和食店と無料食堂を兼ねている。無料食堂は子供だけでなく、親子や大人も受け入れているそうで、入口で「無料食堂を利用したい」と伝えると、定食を提供してくれる。

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いつでも誰でもここに行けば「温かいもの」が食べられる駆け込み無料食堂を開いた

(提供:東京新聞

経営者の内田洋介さんは、プロのキックボクサーとして活躍していた24歳の時、格闘技修行のためアメリカのロサンゼルスに渡り、空手を教えながら、調理師免許を生かして現地のすし店で働いていた。それから3年後、ニューヨークに引っ越しをしたが、物価は高く、所持金はすぐに底をつき、地下鉄の駅前で「殴られ屋」を始めた。しかし、三日後に警察に見つかって断念。地下鉄の駅で寝起きするホームレスになってしまい、道端の雪を食べて空腹をしのぐという壮絶な体験をしている。

しかし、運命の歯車はすでに回り始めていた。

ある日、チャイナタウンにあるパン屋から漂うパンのにおいをかぎながら、雪を食べていた。中から中国人の店員がでてきて、「捨てるから」と袋いっぱいのパンを差し出してくれた。そのパンは涙がでるほどおいしかった。

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そして、内田さんは、やり直そうと決心し、炉端焼き店で働き始め、お金を貯め、再びパン屋を訪れた。恩返しにパンを全部買い占めるつもりだった。しかし、逆に店員に怒られ、「そんな金があるなら、10ドルずつ困っている人に渡してこい。恩を受けたら、他の人に与えるものだ」。

それまで人のために何かするとは考えたこともなかったので衝撃を受け、人を助ける生き方を目指すことになった。

この内田さんの体験を聴いて、真っ先に思いついた言葉が、「運命のいたずら」だ。そして、きっと神さまは私たちをどこかで見ているに違いないと思った。というのも、私も遠い異国で、やはり運命のいたずらとしか思えないような体験をしている。

「捨てる神あれば拾う神あり」だ。

 新型コロナウイルス感染拡大で経済的に困窮する人が大幅に増え、ホームレス生活となり、野宿したりネットカフェで暮らしたりする人たちが増えている。

池袋の炊き出しに並ぶ人の数は290人を超え、前年の2倍近くにまで増えているという。これまでは高齢者が多かったが、新型コロナの影響で若年層が増え、30代から40代がボリュームゾーンになってきたという。

 「必要としている人は、たくさんいるはず。じつは来年もう1店舗、無料食堂を増やす予定なんです。子どもだけでなく、大人も、親子も、どんどん利用してほしい」と内田さん。頭が下がる。

この食堂に行けば、だれでも、温かい美味しいものが食べられる。そんな場所が「ある」ことに、心が温かくなった。

「ロンリネス」と「ソリチュード」2つの孤独

今日は成人の日。

昔は1月15日と決まっていたので、11日が成人の日と言われても、どうもしっくりこない。やっぱり、私にとって成人の日は1月15日なのだ。

 

成人の日が1月15日と決まったのは、どうも満月と関係があるらしい。

昔は、「元服の儀(奈良時代以降、男子が成人になったことを示す儀式)」が、新年最初の満月に行う風習があった。自然を敬う人々の祈りと感謝の心が祭事となっていたのだろう。心の豊かな時代だ。

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法律では「成人の日」は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を国民こぞって祝いはげます日」と定義している。

 

なるほど・・・・では「おとな」とはいったい何なんだろう?

おとなと子供の境界線は年齢以外にあるのだろうか?

自分はいつから、おとなのとしての自覚が芽生えたのだろう?

 そんなことを考えていたら2つのことばがふと思い浮かんだ。

「ロンリネス(loneliness)」と「ソリチュード(solitude)」。

この2つの言葉はどちらも英語で「孤独」を意味する。

 

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ロンリネスは、日本語の「ひとりぼっち」を意味する。誰にも頼ることが出来ず、たった一人で不安で寂しい気持ち。

それに対して、ソリチュードは一人で世界と向かい合い、心が静かに満たされていく孤独。「個」でありながらも、「全体」であることを知っている。

「おとな」とは「ソリチュード」を学ぶことなのかもしれない。人生の荒波を乗り越え、様々な経験をしなさい!と送り出される日、それが成人の日だとすると、飲んで騒いで、自己主張している場合ではない。

 

今、コロナ禍の中で、多くの方が「ロンリネス」の状態になっている。日本では、「孤独は自己責任」と考えられる傾向がある。だから社会システムも弱者に対してとても冷たいように感じる。

私たちはまず、社会は不平等である、ということを知らないといけない。生まれた環境が貧しいとなかなか豊かになれない。そんなの甘えだろう、という人もいる。それもあるかもしれない。でも、現実は冷たい。一度、「普通」の道から外れてしまうと、なかなか「普通」に戻ることができない。そういう社会システムになっているのだ。

もし、まわりに困っている人がいたら、孤独な人がいたら、ただ傍らで寄り添うだけでいい。話を聴いてあげるだけでいい。忘れないであげてほしい。無関心ほど孤独を深めるものはないのだから。

 

 成人の日、大人になった私たちは、もう一度自分がどんな人間になっているか、どんな大人になっているか、見つめ直して欲しい。そうすると、成人の日はもっと意味あるものになるだろう。

変えられるものと変えられないもの

新型コロナウィルスの感染が拡大する前の朝のホームは、電車を待つ人であふれかえっていた。

電車が到着すると人々は電車の入り口に吸い込まれ、どこかに運ばれていく。そしてホームは空っぽになる。するとまたどこからともなく人が集まり、再びホームに人があふれ、電車が来ては吸い込まれ、どこかへ運ばれていく。

おきまりの朝の風景。

 時々、様々な理由で電車が遅延すると、何人かの人はイライラしたり、ソワソワしはじめる。

何度か時計を見ては、身を乗り出して、電車がくる方向をじっと眺め、そしてまた時計を見る。不安やイライラを解消するかのように、この一連の動作を何度も繰り返しては、イライラする。

そんなことをしても、電車が早く到着するわけでもないのに。

 

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私もせっかちな方なので、早く来ないかな・・・とソワソワして無用なストレスを溜めてしまう方だ。

何度、時計を見ても、何度、身を乗り出してみても、電車には何の影響も与えることはできない。逆に、ストレスが溜まり、とげとげしたエネルギーを周囲に発して、結果的にあまりよい時間を過ごすことができなくなる。

ビルのエレベーターもそうだ。無常にも目の前で扉が閉まってしまったとき、悔しまぎれに何度もボタンを押してしまうことがある。まるで、何度も押したら早くエレベーターが来るかのように。

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電車もエレベーターも、自分ではその状況を変えることはできない。

自分では変えることのできない状況に抵抗するのではなく、その状況を受け入れ、心穏やかでいたほうが、よっぽどしあわせでいられる。

 今、たくさんの制約が課され、不安やストレスが溜まることも多いけれど、こんなときは、自分で変えられるものと変えられないものを見極めることが大切だ。

もし自分では変えられないものならば、流れに身任せてみる。変えられることなら思い切ってやってみる。やるだけやったら、あとは、天にまかせてみよう!

しあわせは、自分で作ることができるのだから。

プーさんの森

夜が長いと、本が読みたくなる。もともと本は大好きだけれど、最近は仕事に関する書物が多く、小説を読む機会が少なくなってしまった。

それでも欠かさず読んでいるものがある。それは児童小説と絵本だ。もちろん子供向けだけれど、むしろ大人が読んだほうが良いと思うものがたくさんある。

 フィギュアスケート羽生結弦さんといえば『クマのプーさん』。なぜ、そんなに彼がクマのプーさんを好きなのか、わからないけれど、あののほほんとした顔と、ちょっと抜けているキャラクターは、常にストレスを抱えているアスリートには必要不可欠な存在なのかもしれない。

 私が企業研修を行う時には、各テーブルにぬいぐるみを置くようにしている。すると受講者は考えが煮詰まったときや、コミュニケーションのきかっけに、そのぬいぐるみを手に取る。面白いもので柔らかなぬいぐるみを手に持つと表情が和らいでくる。表情が和らぐと、不思議と心が和らぎ、頭も柔らかくなる。

ぬいぐるみだけでなく、猫のモフモフしたからだをマッサージすると癒されるという人はとても多い。

子どもも大人も、柔らかなものが好きなのだ。

 

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 2018年7月14日の朝日新聞天声人語クマのプーさんのことが書かれていた。

 クマのプーさんが住む森は実在していた。作者のA・A・ミルンが英国のいなかで手に入れた農場があり、そこに大きな森があった。幼い息子とぬいぐるみのクマ、そして森がミルンの想像力を刺激した。

 その息子クリストファーが後に書いている。「森にゆけば、私たちはほとんどの場合、森を一人じめにすることができたのだった。そのため、森は私たちのものだという気もちが、私たちに生まれ・・・・・・」(『クマのプーさんと魔法の森』)。

 プーが抜けだせなくなったウサギの家も、ロバのイーヨーのすむじめじめした土地も、ここから生まれた。挿絵のため、ミルンは画家を森に招いている。

 本で見た森の地図を覚えている方もいるだろうか。その絵が先日、英国の競売にかけられ、約6300万円で落札された。値段の多寡はともかく、報じられた「たぶん児童文学で最も有名な地図」との言葉にうなずく。

 時間が流れているような、止まっているような。一人のときを大事にしつつ、いつでも友達と一緒になれる。うらやましくなる世界が、物語にある。例えばコブタが「プー、きみ、朝おきたときね、まず第一に、どんなこと、かんがえる?」とたずねる場面。

 「けさのごはんは、なににしよ?ってことだな・・・・・・コブタ、きみは、どんなこと?」「ぼくはね、きょうは、どんなすばらしいことがあるかな、ってことだよ。」

 プーは、かんがえぶかげにうなずきました。「つまり、おなじことだね。」(石井桃子訳)』

 もう一度、クマーのプーさんを読み直して見たくなった。きっと、大人になって忘れてしまったものを思い出させてくれる気がする。

 

<お知らせ>

■アート思考入門講座

「大人のためのアート思考入門講座」2021年1月7日(木) | Peatix

「大人のためのアート思考入門講座」2021年1月14日(木) | Peatix

「大人のためのアート思考入門講座」2021年1月21日(木) | Peatix

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 ■第45回サステナ塾 1月29日開催

 第45回サステナ塾 地の時代から風の時代へ 世界を変えるまなざし ~風の読み方~ (2021年1月29日金曜20時~)

■第4回:大人のためのSDGs“教えない”超基礎講座~今更聞けないことも聞いていい~(2021年1月12日)※隔週火曜日夜20時より

第4回:大人のためのSDGs“教えない”超基礎講座~今更聞けないことも聞いていい~(2021年1月12日)※隔週火曜日夜20時より